光遍寺の歴史

仏照山 光遍寺の由緒

 健保四年(1216年)頃法然上人の徒弟念仏坊によって開基。浄土宗の寺院を草創。その後三十有余年、数多くの道俗を化益し仏法を広め、慶長三年(1253)十一月、行年九十五歳にて山城国嵯峨往生院において御入寂。その後も当寺は、念正、正光、了光の四代にわたり浄土宗として続いた。

 その後、後醍醐天皇が北条、足利、高師直等の逆徒蜂起により、吉野皇居より難を逃れ、天川に御遷幸の砌り、位衆一族の者も同じく天川に住居を移して、当寺を仮御所を定めて忠節を尽くした。その節、天皇御自ら一株の梅ノ木に弥陀の尊像を刻み、当寺の本尊となし、天皇御直筆による勅額をひつらい勅願所と定め、当寺を仏照山光遍寺と号した。

 天皇が光遍寺を仮御所とされていた一時期、位衆一族のうち片山玄番の一女が宮女として天皇に奉仕し、天皇の寵愛を受け一子を宿した。天皇が吉野皇居へ御還行の節、当寺の第四代住職了光に命じて、若し胎中の子が女子なれば宮中にかえすべし、男子なれば汝に附し、成人の後出家して大谷親鸞師の流れを汲み天皇御自作の本尊に給仕致せと仰せられた。かくして、男子出生のため、第四代住職了光の弟子となり、出家し御名を賢光(法名 源光)と号し、第五代住職に任ぜられた。その頃、光遍寺は、本願寺三代法主覚如上人のお導きにより、浄土宗を改め浄土真宗と改宗し仏閣となった。

 第五代賢光は、後醍醐天皇の御崩御を深く悲しみ、愛慕の情堪えがたく、慈恩に報わんがため、吉野山陵の景況を光遍寺本堂の後ろに模造なして御遺徳を称えた。

 また、光遍寺は、後村上天皇をはじめ、護良親王、後村上天皇の第一王子長慶天皇、第二王子後亀山天皇等の皇族方々とも深い所縁を持つ寺であり、更に、末寺として天川、大塔に及ぶ二十四ヶ寺を有していた記述があり、こうした史実や古い文献に裏打ちされ、深い由緒に彩られた門信徒の菩提寺である。

(平成16年4月 第25代住職継職奉告、庫裏落慶法要記念誌より)


歴代住職年表

初  代  念仏坊

二  代  念 正

三  代  正 光

四  代  了 光

五  代  源 光

六  代  了 祐

七  代  了 海

八  代  了 教

九  代  教 円

十  代  教 順

十一 代  教 善

十二 代  教 信

十三 代  教 春

十四 代  了 歓

十五 代  不 詳

十六 代  不 詳

十七 代  不 詳

十八 代  不 詳

十九 代  不 詳

二十 代  光澤了秀

二十一代  光澤良若

二十二代  玉井探道

二十三代  玉井鉄城

二十四代  玉井鉄心

二十五代  玉井鉄宗